松田町から山北町


桜めぐりの度



2024.04.10
 春のお散歩旅は忙しい、いろんな花が咲くので時期を逸してはいけないと、あちこち歩きまわるから。今回はまだまだソメイヨシノの咲いていた
頃のお散歩旅の記録です。いろいろUPしていたら、結局今になってしまいました。
 歩いたのは神奈川県西部の松田町から山北町までの8kmほど、途中いくつかの歴史ポイントもあって、それなりに面白い旅になりました。



 

4.10 WED 天気:晴れ
9:15
 今回歩くのは小田急線の「新松田駅」からJR御殿場線の「山北駅」まで、おおむね8kmほどです。
 ルートとしては江戸時代に東海道が整備される以前、東海と関東を結ぶメインストリートだった足柄道に近いところを歩くことになります。そういうこともあって、
松田の街中にもたくさんの道祖神や石仏などがあったりします。藻た

 

 こちらは寒田神社、創建は315年と伝えられ、すでに1700年の歴史を持つ。日本武尊が東征の際に立ち寄ったという伝説もあり、特に格式の高さを感じる神社です。
 東海道が整備されるまでは、旅人が旅の難所である酒匂川や足柄峠を越える際に安全を祈願したといわれています。



 その酒匂川を渡ってよくある土手の道を歩きます。
 1本の桜があって、そのむこうに富士山が見えている。もうここに橋がない時代から、ずっとこの富士山のある風景を旅人は見ていたはずです。

 

 本来の足柄道よりもやや北側、酒匂川に近いところを歩きます。
 一段高いところに道があり、大きな松の樹が点々と並ぶ。もっともっと昔、ここは酒匂川の堤防だった。江戸時代の末期度重なる酒匂川の氾濫を抑えるために
堤防が作られ補修され、それを補強するために松が植えられた。
 これも二宮金次郎の働きです。近隣には多くの石碑が残されていて、その名が記されています。

 松並木は街道の目印、あるいは日陰の確保のため街道沿いに植えられることが多かったけど、近年はそれを土手の補強に使うようになった。このことは
恥ずかしながら自分も最近になって知りました。

 

 そして明治時代以降は松でなく、見た目に美しいソメイヨシノが植えられるようになりました。
 川沿いに桜が多いのはそういう理由です。
 ソメイヨシノがこれだけ多く植えられるようになったのは、成長が早く根の張りが良かったからで、人の目を楽しませるというのは二の次でした。




10:00
 1時間かけて最初の目的地にやってきました。
 ここは神奈川県の開成町にある「第2水源地」というところです。

 以前にこの場所のジオラマをつくったことがありました。(スケール1/72)









 
桜咲く土手に親子二人でやってきた。
 
満開の桜の下、思わず娘は駆け出していた
 
「早くお母さん!」

 傍らにはたくさんの馬頭観音がある。これらはすべてエポキシパテから作りあげています。また使用しているフィギュアはプライザーのホワイトモデル
(1/87スケール)で、身長は2cmぐらいです。

 

 こちらは実際の風景です。
 土手の反対側にはもっとたくさんの桜があって、ちょっとした桜の名所として地元では知られる場所です。

 感動した風景や印象的な場面を情景にしていますが、再び訪れたとき、その風景が自分の作った情景にそっくりだと安心します。
 近い将来、その時その場所の情景が自分のジオラマだけに残っているみたいなことは、十分に予想できます。少し寂しい感じでありますが。



 今回のお散歩旅はおおむね8kmほどなのだけど、松田町、開成町、南足柄市、山北町と1市3町を横断します。
 ちょうど中間地点あたりで南足柄市に入ります。

 県道720号線を歩きます。正面に富士山がかすかに見える。左側には延々と昔つくられた堤防が続きます。
 酒匂川は過去に何度も氾濫を起こした河川で、二宮金次郎の家はそれが原因で一家離散したのは、以前にお話しした通りです。そして酒匂川の氾濫を抑えるため、
過去に幾重もの堤防が何度となく作られてきました。



 

10:25
 ここは桜の名所として知られる大口広場です。
 河原に沿って満開のソメイヨシノが続いていました。



 もちろんここも酒匂川の氾濫を抑えるための土手で、桜は土手が崩壊しないよう補強のために植えられたものです。
 甚大な被害をたびたび及ぼす酒匂川に大規模な治水事業が行われたのは戸時代初期のことです。



 小田原藩は川の勢いを弱めるためにまっすぐな流れをZ型に変えるという大規模な治水事業を行いました。(文明堤 上の画像)
 しかしその後も酒匂川は氾濫は収まらず、特に1707年の富士火山の宝永噴火では、酒匂川に流入した大量の火山灰が河床に堆積したため水位が上昇して、
その後何年も足柄平野に大洪水による被害をもたらしました。


 

 その後は徳川吉宗がここを直轄地として「享保の改革」によって大規模な治水事業が進められ、その後も二宮金次郎ほかたくさんの人々が酒匂川と
戦い続けることになります。
 戦いの歴史を物語るものとして、この文明堤周辺のたくさんの石の遺物が立ち並ぶ、特に福沢神社の手前にはそれが集中しています。おそらくは100以上あると思う、
自分の石る限りその密度は最も高い。
 もはやそれらは読み解くこともできないものが多い。記念碑というのもあるんだろうけど、多くは慰霊碑、そしてあとは水神様、道祖神、石仏といったものだと思います。

 繰り返しになりますが、春ここを彩る桜は土手を補強するためです。桜の数が多ければ多いほど、その土手は補強する必要のある危険な場所だったということです。
そこで長い間、人間と自然との闘いがあったということ。
 土手にきれいな桜が咲くのには理由があるってことです。



11:00
 酒匂川の水害を防ぐために作られた文明堤を渡るとそこは山北町です。古くは北条氏の支城だった河村城があり、ここを舞台にして今川氏や武田氏との間で何度か
戦いが繰り広げられた。



 古くから開けていたこともあって、歴史ある神社やお寺も多いところです。
 こちらは八幡神社で平安時代末期の創建と伝えられます。御神木は樹齢推定300念の楠で山北町指定の天然記念物。



 こちら室生神社に伝わる流鏑馬は神奈川県指定の無形民俗文化財に指定されています。
 平安時代に当地の領主だった川村義秀が源頼朝の石橋山挙兵の際に平家方に味方したため、一時は斬首されそうになった。ところが鎌倉で行われた流鏑馬で
妙技を披露して刑を免ぜられ、旧領に復帰できたという故事に基づいて続けられているそうです。
 鎌倉で流鏑馬が行われたのは1190年なので、この神社に伝わる流鏑馬は現在まで約800年余り続いていることになります。





11:25
 JR山北駅にある鉄道公園です。展示されている蒸気機関車はD5270で、現在も月に1回整備運行されています。
 明治時代の1889年に東海道線の開通で山北駅がつくられ、その後の丹奈トンネルが開通して東海道線が海岸線を通るようになるまでは、山北は鉄道の町として大変
賑わっていたそうです。






 線路を見下ろす橋の上から見る桜のアーチが、このあたりでの最大の見どころです。



 戦後は国鉄の電化がすすみ、ここにあった蒸気機関車の車両基地もなくなって、山北の街そのものの賑わいも失われていったという。
 でもこのレトロな感じの駅前の風景はなかなかに良い。

 

 すでに閉店して久しい商店も多い中、まだまだがんばってるところもある。
 左側は肉屋さん、メンチやコロッケが美味しい。右は化粧品店でウインドウが華やかに飾られています。

 

 また空き店舗は休憩所だったり様々な形で活用されています。
 何年か前、駅前商店街に「やまきた駅前観音堂」がお目見えしました。(右画像) 空き店舗を改装した観音堂には町内在住の彫刻家が製作した観音菩薩像が
鎮座し、地域住民やたくさん訪れるハイカーの安全を見守っています。



 そうこうしているうちに、帰りの電車の時間になった。



 そのとき風が急に吹いて、桜吹雪の中を電車がやってくる。おかげでちょっと良い感じの写真が撮れました。



2024.05
camera:Panasonic DMC-TZ60 / graphic tool: SILKYPIX Developer Studio pro 7 + GIMP 2.8 + Ichikawa Daisy Collage 10



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